古事記編纂1300年記念・いまこそ、日本の美点、長所をあますことなく掘り起こそう!

oonoyasumaro

太安万侶

緊急支援にご協力いただきました皆様、ありがとうございました。
また、今回は保存委員会として、建設費の一部として協力させて頂きましたので御了承下さい。(事務局より)

太安萬侶卿の記念陵建設応援のご案内

2012年5月21日、太安萬侶の祖先を祀る「多神社」を訪ねました。偶然にも、
ご子孫の宮司・多忠記氏のお話をうかがう機会に恵まれました。1300年の時を経て、奇跡的にも遺骨がご遺族のもとへ戻ることが出来たのだそうです。
私たち委員会では、太安萬侶卿の記念陵建設を応援することが、太安萬侶直筆の神代文字を用いた奉納文の保存活動にもつながると考え、この取り組みをご紹介するとともに、応援寄付を当会でもとりまとめいたします。
画像の説明
一口1000円より、「古事記編纂者・太安萬侶卿の記念陵」建設応援寄付を受付いたします。

下記へご連絡のうえ、以下の金融機関口座へご入金お願いいたします。
・郵便局 10640-6811421    「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」   
・銀 行  ゆうちょ銀行 
 店名 〇六八 店(ゼロロクハチ店) 店番068  
 預金種目(普通) 口座番号 0681142 「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」

●お問い合わせ先:
伊勢神宮奉納文神代文字保存会 
事務局 (担当 伊藤・菅原) 
〒303-0046 茨城県常総市内守谷町きぬの里2-18-1 新日本文芸協会内
TEL.050-3735-9135(新日本文芸協会内 平日10:00-17:00)
FAX.029-721-4155

プロフィール

古事記編纂者の一人

(以下、ウィキペディアより)
太安万侶

太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月15日))は、奈良時代の文官。名は安萬侶安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は従四位下・民部卿。

経歴

慶雲元年(704年)正月7日に従五位下、和銅4年(711年)4月7日に正五位上に叙せられる。
同年元明天皇に稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)正月、天皇に『古事記』として献上する。
霊亀元年(715年)正月10日には従四位下に叙せられ、翌霊亀2年(716年)9月23日、氏長となる。
子孫とされる多人長によれば、『日本書紀』の編纂にも加わったという[6]。養老7年(723年)7月7日[7]、民部卿・従四位下で死去[8]。

太安万侶墓誌

1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見された。
火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土したことが奈良県立橿原考古学研究所より発表された。(北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)。

墓誌の銘文は2行41字。
内容は、左京の四条四坊に住んでいたこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年(723年)7月6日に歿したことなどである。

その墓誌銘全文引用は以下の通り。

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定されている。
また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財に指定されている。



レポート

8月23日(和暦命日)多神社にて 松下克仁

多神社鳥居の前にて   太安万侶を祭る小杜神社にて
【写真左 多神社鳥居の前にて参拝者全員記念写真】
【写真右 太安万侶を祭る小杜神社にて。
     左から事務局菅原さん、妻・ミスマル作家、松下エミさん、そして私】

8月23日は旧暦の7月6日、太安万侶卿の命日あたります。
7月6日の記念碑建立の式典参加に続き、神代文字保存委員会の仲間の皆さんと多神社を訪れました。

笑顔でお迎えいただいた多宮司様はお忙しい中にもかかわらず長時間にわたり時間をさいてくださり、安万呂卿にまつわるお話から今の閉塞した時代をどうしていくことが大切かとのことなど様々なことについてお話をお聞かせいただきました。

7月6日の記念碑建立に際しては、団体や企業に頼るのではなく、本当に安万呂卿の遺徳を偲ぶ人たちの心を集えるような形で作っていきたかった、そしてそれが達成できたことは何よりの喜びでしたと話される宮司さんの言葉には、にじみでる深い誇りが感じられました。

また、記念碑の工期がわずかしかない中で、梅雨の時期に工事の中休みの日、一日しか雨が降らなかったことは奇跡であり、安万呂卿が見守ってくれていたとしか考えられないとの逸話も話していただきました。

安万呂卿が祀られている多神社に隣接する摂社 小森神社に立ちそこから見える三輪山から春分、秋分の日、には三輪山の真上から日が昇り大阪平野との境にある葛城山系の二上山に沈んでいくと話される言葉に当時の方々と同じ風景を見ていると思いをはせると感慨深いものがありました。

実際にその場に足を運びその場の空気を感じることのすばらしさは、そこに生きた人々の息吹を肌で感じ、その時代を生きた人たちの思いを少しなりとも感じることができるからではないでしょうか。自分自身これからもできる限り現地に足を運ぶということを大切にしていければと思っています。
 
 太安万侶卿の墓や稗田阿礼ゆかりの賣太神社、そしてここ多神社など古事記にまつわる各地を訪れ感じたことは、私たちにとって古事記とは、単なる物語・伝承ではなく私たちの祖先が今の私たちの心の中にもっとも大切ななにかを伝えてくれる宝であるということです。

昨年の3月11日の震災、今年の古事記編纂1300年という年、来年の伊勢神宮遷宮、出雲大社の遷宮は偶然ではないとのこと、私たち日本語の言霊を使うものにとっての大きな役割と使命を感じました。

松下克仁

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