古事記編纂1300年記念・いまこそ、日本の美点、長所をあますことなく掘り起こそう!

hiedanoarei

稗田 阿礼

(以下、ウィキペディアより)

稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳(7世紀後半から8世紀初頭))は、『古事記』の編纂者の1人として知られる人物である。

伝記

稗田阿礼という人物については、「古事記の編纂者の一人」という以外にはほとんど何もわかっていない。同時代に編まれた『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも名前は出てこない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えていた。一度目や耳にしたことは決して忘れなかったので、その記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた。そのとき28歳であったと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する(声を出してよむ)所を筆録し、『古事記』を編んだ。

時有舎人。姓稗田ヽ名阿礼ヽ年是二十八。為人聡明ヽ度目誦口ヽ払耳勒心。即ヽ勅語阿礼ヽ令誦習帝皇日継及先代旧辞。(『古事記』序)

訳:そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。

阿礼祭2012(第83回阿礼祭)レポート

松下克仁

平城京朱雀門からまっすぐ南へ約6キロ
北大和平野の真ん中に位置する中世以来の稗田環濠集落。
その中に「古事記」ゆかりの稗田阿礼を祖先神として奉斎している賣太神社があり、
その地で、稗田阿礼の遺徳を偲ぶ、第83回阿礼祭が8月16日に執り行われました。

また、当日は神代文字保存委員会を代表し、
みすまる工房より、7月の太安万侶の記念碑建立での奉納に続きミスマルを奉納させていただきました。

第83回阿礼祭 第83回阿礼祭

子供たちによる舞の奉納の後、
踊りや歌、人形劇、手品、古老による読み聞かせなど地元の方々の
熱い思いのこもった阿礼祭は、本当に胸の熱くなる感動がありました。

以前に賣太神社を訪れさせていただいた際、
宮司の奥様より

「稗田の環濠の里は、聖徳太子さまから広大寺池の水利権をいただき、今も出水の権利のもっており、池の水を出すたびに法隆寺にお礼参りすることがならわしとなっている」

とのお話をしていただきました。
そこには、地元の皆さんが持つルーツへの絆、
そして感謝と誇りを感じ、そのことが今を生きるひとたちの礎として脈々と生き続けていることがわかりました。

そしてそのことは、自分が3.11以降強く求めていくようになった
日本人としてのもっとも大切ななにかを示唆してくれているように感じるものでした。

松下

諸野幸子

第83回阿礼祭が16日、古事記編纂に尽力された稗田阿礼さんをまつる
賣太神社でありました。

今年は古事記編纂から1300年を記念し、古事記をテーマに公演する
市民劇団による楽曲の奉納も行われました。

阿礼祭は昭和5年8月16日以降、「古事記を伝えた稗田阿礼を『お話の神様』
として顕彰しよう」と全国童話連盟の人たちによって開催され、
45年の終戦翌日も開かれており、一度も途切れることなく続いています。

aroundl,阿礼さま音頭踊る子供たち

当日は、巫女舞=稗田舞の奉納の後、地元小学校の子供たち約50人が
「阿礼さま音頭」に合わせて踊りを披露しました。

神代文字保存委員の松下エミさんによるミスマルの奉納もされました。

奉納後、多くの方がミスマルに関心を持たれたようで、松下さんに
ミスマルについて質問をされていました。
当日は、複数のメディアも来ていて、古事記編纂1300年記念祭ならでは
の賑わいでした。

aroundr,松下エミさん

メディアを通して、このような行事を初めて知る人もいると思います。
ミスマルを通じ、古事記、古代日本の真実を知り、素晴らしい日本を
思い出して頂くきっかけになることと期待しております。

松下さんのこれからの活動が、とても楽しみです。

神代文字保存委員としても、これからも古事記、来年の伊勢神宮、
出雲大社のダブル遷宮に向けての活動を盛り上げていく所存であります。
(レポート 事務局・諸野幸子)

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